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舞踏六人衆 第一夜

人は何のために躍るのだろう。それは、身体という記憶の回廊を皮膚膜を通して外在化することにあると思う。私は、人間とは自然という機能を内在化させた有機的な機械だと考える。その内なる自然は、皮膚膜を通して外在化される瞬間、身体は開かれていくのだ。これを、私たちは心地よさという。すなわち、躍ることは、身体の内に風を通すことだ。そこにメディア(触媒)としての身体が立ち上がり、風景が顕在化する。身体の内が外へと通底し、身体は開け放なたれた窓となる。フリーダ・カーロの絵のように。苦悩と歓びが、一本の弓矢となって穿たれ、身体はその瞬間に消滅するのだ。舞踏(ダンス)とは現れては消える風景に過ぎない。(本日の考察)

追記
この(本日の考察)は、改めて読むと、観る側の欲望なのかもしれない。私は舞踏に、ただ官能性のみを観たいわけではない。むしろ、その歪みや、屈折をこそいとおしむ。そのことを前提として、身体を穿たれた窓として開けることは、舞踏身体の冒険であるように思う。


2007年11月16日
「秋のタタラ祭り2007 舞姿六人衆」第一夜、テルプシコール
田山明子「羽化・石化Ⅴ~Twinkle twinkle little star」
小野由紀子「ゆふつづ~すぐそこに~」

後に踊った小野由紀子から書こう。あらためて批評として書くが、小野の身体は昭和の風景こそが似つかわしい。その佇まいには生活の匂いがし、戦後の女たちのふてぶてしさや力強さを内面に溜めて、持続する力として小野の身体は立ち上がってくる。小野の体内にどのような記憶の風景が織り込まれているかは知らない。しかし、小野はまぎれもなく視る人である。その観察眼において、小野は注意深く風景を内在化させる身体の眼をもっている。ここが小野の秘めた能力ではないか。下半身の強さは、毎月、大倉山で踊り続けている鍛錬によるものであろう。屋外で踊るということは、身体を窓として内と外を交流させることにある。雨に濡れた体や枯れ葉に包まれた体が、皮膚感覚として風景を内在化させる。身体という眼が、それを幾層もの記憶の回廊として編み込んでいくのだ。その成果はまぎれもなくあった。
左手で何かをまさぐるように立った場面、雨に濡れた土を撫でるように前進していった場面、のど自慢の音を背後に背負いながら静かに立っていった背中の風景、そこにビョークを重ねながら深く深く沈んでいった大団円。演出上の問題としては、のど自慢の後に、別の位相に転化する最後のダイヴを試みるべきだったかもしれない。そこは問題点として残しながらも、小野の持続力は充分賞讃に値する新たな境地を拓いたのではないか。ラジオのチューニング音は、皮膚感覚の回路を思わせて、成功していたと思う。音響は大野英寿。今年、もっとも納得のできた舞踏公演であった。

一方、田山明子の身体は、いささか空間が狭いのではないか。自己確認をしながら空間に線を描いていたが、空間の質そのものはそれほど変わらない。広がりもしなければ、狭まりもしない。その単調さに、私は耐えていた。音を放射したKo・Do・Na(オルガン、トランペット)も、田山の身体の内側に入り込むことや、そこから還ってくる質感を確かめていたようには思えなかった。Ko・Do・Naはどれだけ注意深く田山の身体を視ていただろうか。Ko・Do・Naのトランペットは、空間に放射した音がどこを巡っているかを確かめないで吹いている。だから音が孤絶しているのだ。コラボレーションでありながら、二人の表現者は自己を外在化させるのにせいいっぱいで、一瞬でも溶け合う場面はなかった。ここが最大の不満である。バレエシューズを手に持って、Twinkle twinkle little starで消えていく最終場は美しかったという声も聞いたが、残念ながら客席の上手側にいた私はそれが見えなかった。ただ終わってT氏(舞踏批評家)と話したら、自分は小野さんよりも田山さんの方が良かったといっていたので、人によって感受性はずいぶんと違うものだなあと思った。

第二夜は木村由、藤井マリ(19:00~)。
by planet-knsd | 2007-11-17 04:03 | その他
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