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テルプシコール企画「舞踏新人シリーズ第34弾」

テルプシコール企画「舞踏新人シリーズ第34弾」

●会期:2007年5月10日(木)~13日(日)
●日時:5月10日(木)~12日(土)pm7:00開演・13日(日)のみpm5:00開演
●会場:テルプシコール Tel.03-3383-3719(JR.中野駅南口下車、高円寺方向徒歩7分)

<出演>
5月10日(木)…阿久津 智美『つなぎもの』
5月11日(金)…小川 水素『とける』
5月12日(土)…天都祝刀『戯式』
5月13日(日)…芽衣桃子『桃われ』


以下の文章は、最終日の夜に行われた講評の感想文です。


印象に残ったのは、合田成男氏が芽衣桃子の「はにかむように消えた」ことを評価した言葉だった。合田氏の芽衣さん評は極めて辛辣であったのだが、そのことだけは評価した。「最近、そういう踊り手が少なくなってきた。表現することは恥ずかしいことなんだ。そういう感情をカラダが持っていることは重要だ」というニュアンスのことを述べられたと思う。

私も同感だった。踊りは「出現と消滅の時間」そのものであり、消えることに大きな意味があると思う。それは死へ向かう刻であり、来るべき再生を予感させるものでなければならない。その「はかなさ」が舞踏の本質であるとさえ私は思うのである。はかなさのない踊りほどつまらないものはない。照明の中心に立って、舞踏は成り立たないと思う。陰をまとうことを知らない踊り手は、それだけで評価の対象外である。

私は、芽衣さんが異形の人形として現れ、はかなさにおいて消えたその道程を美しく思った。途中の涅槃を想わせる静けさのなかに身体を置いた瞬間を好ましく思った。『桃われ』というタイトルに寄せて、芽衣さんは「桃の木の礎になろうとした」と私に語ってくれた。「けっして、桃の実そのものになろうとしたわけではない」と。(芽衣さんはこの作品に対して、短い詩を書いているけれども、手元に資料がないので、これを明日、加筆したい。)

佐藤正敏氏は、「芽衣さんの踊りには隙がない」とその近寄り難さを否定的に述べたけれども、芽衣さんの志向性に優しさがないわけではない。佐藤氏は「桃の実の滴るような実感がない」という意味のことを述べていたが、確かに芽衣さんの身体は佐藤氏が期待するようなジュクジュクとした柔らかさに欠けているかも知れない。芽衣さんの筋肉の質については合田氏を含めさまざまな意見があったけれども(おおむね批判的な意味で)、私はそのフォルムの美しさを肯定的に捉える面もある。ただ、立ったときに光や風を感じることがなく、舞踏の空間としては広がりをもちえなかった。

それは師匠の大竹宥熈氏も指摘していたことで、私も壁に向かった場面で、向こう側に夜の海がひらけるか、風吹く暗い草原がざわめくなどすれば、まったく身体は変わっていたように思う。

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天都祝刀の『戯式』が意外と高い評価だったのには、正直驚かされた。新人シリーズの講評もずいぶんと優しくなったなあと感じた。神道の神主でもある天都の作品は、かなり演劇的でもあった。上手奥に設えられた神棚は、結界が敷かれ、聖なる空間を形作っていた。そこに異形の神官が三人(怪しげな仮面を被っていたり、包帯をグルグルに巻きサングラスをしていたりする)と、一人の巫女がいた。儀式の名称が告げられ、祝詞がそこで上げられる。それは神式の本格的なものであった。しかしいつしか猥雑な言葉を孕みつつ、「暗黒神楽を奉納する」ことが宣せられる。このような仕掛けは、私は嫌いではない。

しかし、天都の舞踏はいささか力のない、狂言回しのようなものであった。一応の形、振付はそこにある。必死の形相でのダイブは確かにあるので、その生真面目さは「買い」であるのだが、けっして踊りがおもしろいとか、堪能しうるとか、引き込まれるとかのことはいっさいなかった。「馬鹿ばかしさ」が評価されたのだが、それだったら「戯式」とかもったいぶらずに、始めからギャグとかコントとかいってほしかった。それは冗談としても、天都祝刀という仰々しい名前と冒頭の神式の儀礼によって、むしろ私はファナティックなものを期待したのである。それはとんだ肩透かしであった。神領國資の亡霊は現れなかった。

ただ、ソロ舞踏に玩具のピストルがパンパン撃たれたり(ここでチンドン屋の音楽がかかったのは良かった)、ピストルを撃った神官が背後で巫女の太腿をまさぐるなどの猥雑なシーンは好きである。ビタワンのドッグフードの袋をかぶって血だらけの傘を持って出て来るなど、イメージとしては評価したい面もある。ただ出て来るカラダがあのプヨプヨの「外郎(ウイロウ)のような身体」ではなんとも興醒めしてしまうのである。私は男性舞踏手には「怖い身体」を期待してしまうので、あのような猥雑そのもののカラダには引いてしまうところがある。

ともあれ、生真面目でいい青年なのである。「日芸魂」という評価も聞かれたが、確かに馬鹿ばかしいほどのヘナチョコぶりはあえて評価してもいいのかも知れない。しかし合田成男氏が言うように、「二つの生半可さがある。神道に対する生半可さと舞踏に対する生半可さだ」という冷静な評にはうなづくものがあった。合田氏は神道の儀式において立ち現れる身体の所作を内在化させ、そこからカラダの内に己の神道を打ち立てよと言ったがその通りであると思った。その回路において、天都祝刀はどれだけ真摯であったろうかと私はいぶかしむ。

その作品がフェイクにしか見えないというのは、やはり致命的な欠陥ではないか。神道のフェイクとしての舞踏ではなく、神道の裏側に入っていく舞踏こそを見てみたい。それが真の意味での「暗黒神楽」ではなかろうか。本人の生真面目さだけで作品を評価したくはない。彼のカラダを突き動かしているもの(=身体の回路)は、まったく見えなかったのだから。

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小川水素さんは、見せ方を知っている人だなという印象をもった。すべては確信犯的で、入り方は大胆である。舞台慣れしているなという感じがあった。

着物にステンレス製の物干し竿というのも、ブツの強さを日本舞踊の所作に持ち込もうとした実験だったと思う。あそこは「藤娘」の引用だと水素さんは打ち明けてくれた。そのように彼女の踊りはアイディア満載なのである。

志賀信夫氏が指摘したように、水素さんはいくつかの名場面を作り出した。冒頭の電球の明かりに足袋の足が浮き上がる場面、帯の上を右手の拳で繰り返し繰り返し叩き続ける場面、着物を着せた人体の脇で棒を持って大きく口を開ける場面、棒を背中に立て掛けて座って蝶のように舞う場面など、絵作りという点では彼女はしたたかな演出家である。特に、肚を叩き続ける場面はある感動をもって見たし、明らかにここで作品もカラダの質も変わったのだった。

しかし水素さんのような明晰なタイプは新人シリーズではもっとも叩かれやすいことは経験上知っていたので、合田氏が口をきわめて批判したことは予想されたことでもあった。簡単にいえば、彼女の踊りには素朴さがないのではないか。カラダの真実が見えてこないといってもいい。それは『とける』というタイトルを付けながら、ついに溶けることのできなかったカラダが象徴している。評者全員が批判した着物を脱いでからのダンスは、私も批判するところで、「それまでを台なしにした」という言葉が出たほどこの最終場面はやはり完全な失敗ではなかったか。

しかし水素さんは、あれほどの集中砲火を浴びながら顔を下げることなくそれをすべて受け止め、最後まで明るく振る舞える強さをもった人だった。話していても気持ちのいい人で、彼女自身も現在の問題点をよく理解していると思われたのである。でも、水素さんのような踊り手が本当の意味で裸になっていくには相当な時間と経験が必要だと感じた。経験とはただの舞台数ではなく、身体の質を変える何か決定的な経験かも知れない。

考えてみると、舞踏神とは残酷な神で、どれほど身を削って捧げ物をしても万人に平等に微笑みかけることもなく、ましてや輝きのカラダなど通り過ぎる天使のようにはかなく、ただその一瞬の、いやもしかしたら繰り返し訪れるかもしれない法悦の時間を求めて、舞踏手はその身を鍛え上げていくのだろうと思う。


追記
初日の阿久津智美さんは見逃したので、ここでは言及しません。ご容赦。
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by planet-knsd | 2007-05-18 04:42 | その他