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岩名雅記監督作品『朱霊たち』:「死は性愛の裏側で、聖なる世界へと通じている」

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下記の原稿は、身体表現批評誌「Corpus」創刊号に掲載されました。

「死は性愛の裏側で、
聖なる世界へと通じている」
――岩名雅記監督作品『朱霊たち』に寄せて



 舞踏家・岩名雅記が、映画に初挑戦した。長編舞踏劇映画『朱霊たち』(一〇四分、白黒スタンダード一六ミリ)である。

 この映画は岩名が製作・監督・脚本を務め、フランス、南ノルマンディーの彼の自邸、同ペルシュ地方自然公園内にあるクールボワイエ城館、そしてブルターニュのギャルド海岸などで撮影された。撮影監督は、フィリップ・ガレル作品の助手などを務めた女性カメラマン、パスカル・マランである。

 舞台は戦後七年目の東京に設定されながら、全編がフランスで撮影された。この映画のために、舞踏家の澤宏、長岡ゆり、若松萌野、七感弥広彰、舞台俳優の根岸良一、パフォーマーの首くくり栲象らが出演した。これにイタリア人の舞踏家バレンティナ・ミラグリア、フランス人舞踏家モハメッド・アロスイが加わっている。

 物語はいささか奇妙なものである。廃墟のような館に、数名の男女が幽閉されている。彼らは陽の光を浴びることができない難病に侵されており、自らの意志で死を待ち望んでいる。生まれながらに獣のような指を持ち、見世物小屋を転々としていたヒズメ(澤宏)、男と心中して生き残った娼婦ネアン(長岡ゆり)、それに聾唖者で不具者のマリア(バレンティナ・ミラグリア)である。もう一人、今朝ほど首を括って死んだ女カケラ(若松萌野)がいる。

 そこに特攻帰りの旧軍人ヒノマル(モハメッド・アロスイ)に誘われて迷い込む少年(滝原祐太)がいた。彼は、空から飛行機で撒かれた「人間機関車ザトペック来日」のビラを追って、ここまで辿り着いてしまったのだった。ヒノマルは病者たちの監視役ではあったが、戦争の虚しさに倦んじ果て、共に死ぬことを願望していた。

 つまり、この映画は、死へまっしぐらに向かう男女の密室劇である。その劇は、さながら世界を呪う秘儀として、すべてを暗黒点へと引きずり込んでいく。観客はそのエクスタシーの果てに陶然とするほかはない。

 病者たちの棲む館は麻布界隈にあり、壁に穿たれた洞穴が山谷へとつながっているとされる。それは地獄めぐりの迷路なのか、それとも幻世へとつづく階梯であろうか。

 ヒズメの手がマリアのヴァギナに侵入すると、恍惚の果てに聖なるヨダレが垂れていく。甘露なる滴に濡れて、肉体の大伽藍にシマノフスキー作曲の『スタバトマター』が響きわたるシーンは、まさに舞踏の生まれる瞬間ではないか。岩名はこのように言う。

 「性愛(エロティシズム)は、自己が制御しえない瞬間の死であり、舞踏は〈死を生きてみせる生命そのものの技術〉という点で双方が〈死〉に結びつくのです」

 死は、性愛の中心に潜んでいる。そして、性愛の果てに、鏡のように死者としてのドゥーブル(もう一人の自己)を映し出す。性愛は死を招き入れることによって、エクスタシーという合一を幻出させるのである。

 舞踏は性愛と似て、死をかき抱くように踊り、肉体という伽藍に死者を棲まわせようとする。舞踏は、死へまっしぐらに向かう生命の燃焼を劇場化するのだ。それは危険な賭けには違いないが、そのような危機の絶嶺においてのみ舞踏の華はひらくのである。

 岩名の言うように、舞踏が〈死を生きてみせる生命そのものの技術〉であれば、そこにはやがてカケラとして散る肉体の影――それは、未来の影だ――をも映すだろう。

 「無名にて死なば星らにまぎれんか 輝く空の生贄として」(寺山修司)

 映画の冒頭に掲げられる寺山の短歌である。それにしても、マリアはなぜ不具者なのだろうか。岩名はこのようにも言う。

 「マリアはほかの登城人物のパーソナリティと違って僕の概念の産物です。ヒトがモノになれば、ヒトが持っている不完全性を超えて完全なものになる。モノは不具であるがゆえに完全を獲得する資格があるということでしょうか」

 奪われたもの、もぎ取られたものに聖性が宿る。マリアは、世界に明け渡されたモノであるがゆえに、神なるものとして世界を合一する。「輝く空の生贄として」、マリアは病者たちの魂を拾い集めていく。

 縊死したカケラの死体を捜しに、ネアンと少年は洞窟をめぐり、幻のような黄泉の国――浜辺――へと至る。そこには、生命のカケラが鏡に反射しあい、星々のように煌めく幻想の風景が広がっている。

 白昼夢のように現れたマリアが、「ヒトがミズやヒカリやイロやオトのような〝モノ〟になれば、まず私たちのカラダが変わります。カラダがモノに変われば、歩けないことも話せないことも聴こえないこともなくなります」と話す。

 印象に残る美しいシーンだ。聞くところによれば、『朱霊たち』は、葛原妙子の歌集『朱霊』にタイトルの想を得ているという。

 「湖(うみ)の風つめたく吹きて球台に散らばる 赤き玉 白き玉」(葛原妙子『朱霊』) 
 「赤玉をうすきめがねに染めつつひとりの死者たまあそびする」(葛原妙子『朱霊』)

 このように、赤玉・白玉のような命のカケラは、死者と戯れながら、その霊を慰めることもできるのだろう。だから、『朱霊たち』は、けっして絶望の物語として編まれたわけではない。その逆説的な生命の燃焼を、熱き血潮の涙を、私たちは見通せなければならない。

 ところで、『朱霊たち』は、なぜ戦後七年目に舞台を設定したのだろう。焼け跡闇市の風景の中で、近しすぎる死の記憶がまざまざと生者を食み、生者は死者に寄り添って生きていくことが自然としてあった。そうであるがゆえに、戦後の青空は、生き残った者の肉体をあれほど輝かせたのである。死者が鏡となって生者に光を与えたのである――。

 舞踏劇映画『朱霊たち』は、戦後のこの剥き出しの生命の在り様をなぞろうとする。それは、岩名の身体の記憶がそうさせるのであろう。舞踏は死者と入れ替わる技術でもあり、死んでいった者たちのカケラが、この肉体をも貫いていることを舞踏はよく知っている。「呪って祈る」存在として、舞踏者は死者と共に在ろうとする。

 物語の終盤、ヒノマルが『海ゆかば』を歌うと、密室の劇はふたたび死の縁へと辿り着く。映画は、難病者五人が揃えばガス室で死ねる、という大団円を用意する。舞踏劇は死へ跳躍しながら、肉体を永遠の零地点へと封印するかのようだ。そこに、死と生を合わせ鏡のようにかき抱き、絶嶺の舞踏を踊る者たちがいる――。

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舞踏劇映画『朱霊たち』(Vermilion Souls)
2007年1月20日より、東中野ポレポレ坐にてレイトショー公開。
http://www.shureitachi.com
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by planet-knsd | 2006-12-29 17:50 | 岩名雅記

Dance. Medium 『THE INVISIBLE FOREST-見えない森(リメイク版)』

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ここには、出現から消滅への時間が流れている。この現世に、『見えない森』が、幻の風景として注入される。浸み込んでいく幻影は、私たちの内奥で溶けていく――。

(此処は何処なのか。此処は其処へ行けないのか。其処は此処と交じり合えないのか。)

イリュージョンとしての森は、私たちのアナザーワールド(もうひとつの世界)であり、すでに壊されてしまった、失われた王国である。『見えない森』は、そうした遺伝子に眠る太古の記憶を呼び覚まそうとし、人間が地上を完全に支配する以前の、神話的世界を掘り起こそうとする。それは、人間が自然に怖れを抱き、世界が内的なヴィジョンとして語られていた時代でもあろう。自然は、現実的には人間の生活を脅かすがゆえに、内的なヴィジョンの中で調和的世界として秩序立てられていた。この作品は、人間と自然の調和的世界――『見えない森』を見ようとすることを問いかけている。

地霊ともいえる男(正朔)が、地響く音の中で揺らめいている。それは、古代の神のようであり、この地上の支配者であるかのようだ。男が眠りについたとき、一人の女(長岡ゆり)が中央に立つ。男神(暗闇)に対する女神(光)であろうか。女のゆっくりとした動作は、指先から森を生み落とすかのような呪術的な舞踏である。やがて辺りに精妙な森が幻出し、舞台は柔らかな光に包まれていく。曲は、ウィリアム・アッカーマンの『Froyd's Gohst』。

そこに白装束の亡霊たち(宇田川正治、小玉陽子、亀田欣昌)がゆっくりと侵入する。すでに彼らは死者であるが、その霊魂は精霊として森に棲みついている。森の女神(長岡)は精霊たちを操り、地霊の男(正朔)を地上の果てに連れて行って、埋葬する。

女神は第一の精霊(小玉)を動かし、両腕を突き出して山猫のようなダンスを踊る。やがて獣と化し、肉を食いちぎり、舐め合い、じゃれ合うようにして、太古の森に遊ぶ。二人が倒れこんでから、小さな第一の精霊は、眠っている第二の精霊(亀田)に近づき、その耳を噛む。

二つの精霊は、お互いの魂を交換し合い、絡み合う。眠りこけた小さな精霊を男が抱き、静かに横たえるシーンは、夢の中の恋を想わせる。

女神が赤い衣裳を着て立ち上がると、キム・デファンの『黒い雨』がかかる。風景は一変して古代アジアの森を出現させる(私はここで、アイヌの森、朝鮮の森を想った)。

女神は古代世界の女王へ変移し(たかのように見える)、第三の精霊(宇田川)を引き起こす。この端正なマスクの白い精霊は、女王に挑発され、蹂躙されながら、恐怖の時間を過ごす。

その屈従に耐えかねたかのように、男は赤い布を引きちぎり、赤い布のダンスを踊る。それは叛乱の踊りであり、恐怖を吹き払うための踊りである。ブライアン・ジョーンズがモロッコで採集した民族音楽『ジャジューカ』が激しくかかり、空間は攪拌されていく。地面を這う第二の精霊(亀田)がこれに絡み、二人は布を奪い合うように激しくもみ合う(エリオット・シャープ/Leap Year)。

喧騒に眠りを妨げられたのか、幾世紀もの眠りから覚めて、地霊の男がゆっくりと立ち上がる。伏魔殿のように背後に立ち、その前で女神と三人の精霊たちが狂おしく踊る。永遠の息を吐き、自らを呪縛する邪悪なる力を解き放つかのように。「見えない森」は、静かにこの世から消え去っていく。

暗転して、舞台はモヌケノカラ。

追記
これまでの男性舞踏が、ともすれば内的な狂気と倒錯を作品化したのに比べると、Dance. Mediumの『見えない森』はきわめて女性的な感性に溢れている。現世の背後にある魔術的神話世界にテーマを求めているので、(見えない)オルタナティブな調和的世界を作品化してもいる。それは、古代世界の風景にもつながろう。長岡ゆりは、その鍼灸師としての経験が関係するのであろうが、ここにセラピー的な舞踏を提示したともいえる。それが、舞踏の始原とまったき別の位相であったとしても、興味深い新しいチャレンジであるように思う。『見えない森』は、Dance. Mediumが舞踏集団として一つの到達点を見せた作品であったと思う。

特に触れておきたいが、Dance.Mediumの定期公演で誰よりも成長したのが小玉陽子だと思う。この演劇出身の舞踏手は、いまだソロを踊っていないというが、正朔が見出した才能だけあって、その勘の良さは抜群といえる。是非いつか、ソロを見てみたいと私は密かに願っている。

長岡ゆりは、来年ソロ作品を予定しているというので、これも期待して待ちたい。

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Dance. Medium 定期公演Vol.3
「THE INVISIBLE FOREST-見えない森(リメイク版)」
http://www.tinyalice.net/
 
☆出演=長岡ゆり 正朔 宇田川正治 小玉陽子 亀田欣昌
☆12/4(月)、12/5(火)

長岡ゆり/Dance. Medium
http://www.onore.info/dancemedium/(Dance. Medium)
http://diary.jp.aol.com/q3j4y5curtc4/(長岡ゆりブログ)

長岡ゆりインタビュー「妖精的デーモン的神話世界を作る ダンサーの個性を生かして」(Alice Intervie)
http://www.tinyalice.net/
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by planet-knsd | 2006-12-11 06:37 | 長岡ゆり