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大森政秀舞踏儀アンモナイトの爪・ⅩⅩⅣ『域-ZONE-2006・冬』

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客電が落ち、灯りが点くと、四人は絶妙なポジションをとっていた。そこから静けさが充ちていき、ほとりの風景が視えてくる。どこかの川辺なのであろうか。帽子を被り、タオルを首に下げた大森政秀が、静かに其処に立っている。鉱物少年のような佇まいで、遠い記憶の風景が少年を包み込んでいく。静かに歩き始めると、舞台は真空の世界へと変幻するかのようであった。大森の偏愛するタルコフスキーの風景が、そこで一瞬脳裏をよぎった。水は流れている、風景は死なない。アンモナイトの記憶の中で、舞踏手は真っ直ぐに消えていった。

他の三人の舞踏手の中、小野由紀子の身体に、宙に明け渡された震えを見、瞠目をした。滑稽な動きが連続して出てくるが、この人の身体はどこまでも自由で、嘘偽りがない。虚空の視えない踊り手など何の価値があるだろうか。小野は、まぎれもなく虚ろな笑いをこっそりと湛え、無邪気に、それでいて哀しみを漂わせ、美しく踊った。

終盤は大森の独壇場であった。私はこの人の踊りを数年ぶりに見たのだが、ケレンを持ち味とするこの人が、どこまでもニュートラルなポジションをキープしていた。その集中力、持続力に私は感嘆した。衣裳はいつもながらおかしみに溢れている。コートを裏返しに着、肩からは緑色のパンダの絵が描かれたミニポーチを下げている。胸元に洗濯バサミが一つ。そして髪には赤い髪留めがある。大森のこのフェティッシュなモノへの執着は、少女趣味的なおかしみがあり、私は大好きである。そこに描かれた風景が何であったかわからない。雑踏の音が軋みをともなって流れ、そしてローリング・ストーンズの「シーズ・ア・レインボー」で、大森の身体はフワッと軽みへと飛んだ。壁際への執着、繰り返される動作、大森は執拗に舞踏の導線を伸ばしていき、静かなる夢遊に踊った。この虚ろなる遊びにこそ、大森の真骨頂はある。

風景はやがて、彼方へと消えた。

「不思議な生き物として転がっていればいい」「なさけない体が流れ込んで来るわい」「お若いの、きみは自分を何者だと思っとるんか?」「いいの、いいの、いいの、心配いらないわ。大丈夫できるわよ」「勝手に汗をかくな」「世界の果てまで連れてって!……」「虹では遅すぎる、オーロラだ!!」(フライヤーより)


大森政秀舞踏儀アンモナイトの爪・ⅩⅩⅣ『域-ZONE-2006・冬』
構成・演出・出演:大森政秀
出演:大倉摩矢子 ワタル 小野由紀子
日時:11月25日(土)pm7:00開演・26日(日)pm6:00開演
会場:テルプシコール
予約・問合せ:03-3338-2728 天狼星堂企画室
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by planet-knsd | 2006-11-26 09:28 | 大森政秀

祝・『朱霊たち』公開記念:長岡ゆりとDance Mediumに捧げる頌歌

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ex-wifeの長岡ゆりが舞踏家・岩名雅記監督の舞踏劇映画『朱霊たち』(新春公開)に出演するというので、ご祝儀として書いた文章である。

舞踏劇映画『朱霊たち』
http://www.shureitachi.com/body.html

『朱霊たち』予告編
http://www.youtube.com/watch?v=EPALw8978g4

岩名雅記
http://www.iwanabutoh.com/indexj.html

『朱霊たち』コミュ(mixi)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1294500


長岡ゆり/Dance Medium
■インタビュー:「The Invisible Forest~見えない森(リメイク版)」(12月4日~5日) 「妖精的デーモン的神話世界を作る ダンサーの個性を生かして」
タイニィアリス「Alice Interview」参照
http://www.tinyalice.net/

http://www.onore.info/dancemedium/
http://diary.jp.aol.com/q3j4y5curtc4/
http://www.geocities.jp/ackid2006/higuma.html

■Dance・Medium 定期公演Vol.3
「THE INVISIBLE FOREST-見えない森(リメイク版)」
http://www.tinyalice.net/

☆12/4(月) 7:30
  12/5(火) 7:30
☆会場=タイニィアリス
☆料金 学生1800円  前売・予約2000円  当日2500円

☆出演=長岡ゆり 正朔 宇田川正治 小玉陽子 亀田欣昌

◎長岡ゆりと正朔(元・白桃房)、先鋭的な二人のダンサーが組んだダンスユニットの第三回定期公演。

☆問い合わせ ℡090-3904-1032(長岡)

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『長岡ゆりとDance Mediumに捧げる頌歌』

Ⅰ メタモルフォーズする身体

長岡ゆりが追求する舞踏は、器としての身体を道具としながら、個的な身体記憶を集合的無意識の海へ解き放っていく自己変容の技術である。長岡はそれを「伽藍としての身体」「虚空としての身体」、あるいは「メタモルフォーズする身体」と呼ぶ。その身体概念は、個に従属した身体ではなく、「medium(媒介、中心、霊媒)」としての身体、世界に開け放たれようとする身体である。それは、極小のミクロコスモスから極大のマクロコスモスへ貫流し、響き合う、波動する身体である。

身体記憶とは、身体化された記憶、あるいは身体によって呼び覚まされる記憶と考えてよい。舞踏・ダンスは、個的な身体記憶を表現の資源とするが、それが自意識によって制御されたままであれば個的な像をしか結びはしない。そのような媒介性・交流性のない舞踏・ダンスは、ただその人のみを空間に現出させるに過ぎず、空間そのものを変容させることもない。風景が見えない、想像力を喚起することもない。

長岡が主宰する「Dance Medium」は、個を超えていく舞踏を追求し、個的な身体記憶を資源としながらも、他者と響き合うラディカルでニュートラルな身体技法を徹底的に積み重ねていく。それは、身体訓練によってのみ可能な、プロフェッショナルな舞台表現のためのメソッドである。その舞踏は、記号化されたエキゾティックな舞踏スタイルとも異なり、舞踏手の個的な身体から出発する、普遍的な身体の冒険でもある。

従って、長岡ゆりの舞踏は、常にニュートラルな中心を捉えようとする。虚空の中心を探りあてた時、身体は急速に開いていき、世界と共鳴する磁場へ自己を置くことができる。それは静謐なゼロ地点だ。そこから長岡の身体は、変容の兆しを見せ始める。腕を静かに差し出すにせよ、頭を激しく振るにせよ、他者なるものを引き入れながら、自己を空間の中へ溶けこませていく。他者なるものとは、単に演じられる他者ではなく、自己を媒介として生み落とされる他者、影(ドゥーブル)としての他者だ。そこに、風景が出現する。身体が影をまとう瞬間である。

身体のオートマティスムは、やがて世界に折り畳まれた記憶の滝を見せながら、パノラマとしての身体を開示していく。それは、世界を映し込む窓でもあろう。観客は、舞踏手の身体を媒介としながら、自己の記憶をコネクトし、そこにもうひとつの世界を幻視することができる。それは、共鳴磁場としての舞踏空間をめざそうとする試みである。交流する磁場、響き合う空間の中で、舞踏手の身体は世界に明け渡され、エロティックな幻(イリュージョン)が透過していく。

Ⅱ サーカスとしての広場

長岡ゆりはソリストとして研鑽を重ねながら、2003年に「Dance Medium」というカンパニーを組織し、コレオグラファーとしての自己を探求している。Dance Mediumは、一つのコロシウムであり、一つのサーカスである。もっとも似つかわしいのは、闘牛場のイメージであろうか。円形劇場のような広場で、パフォーマーは自己を曝け出し、自己を生贄とする。現れては消える燭台の炎のように、舞踏手は身体の永久運動を繰り返していく。

観客が共鳴磁場に自己の記憶をコネクトしうるように、Dance Mediumの舞踏手は、自己の身体記憶を広場へコネクトする。それは、折り重なるイリュージョンであり、サーカスとしての多元的な舞踏空間である。亡霊のように通り過ぎる者がおり、記憶の糸を紡ぐ者がいる。暗闇に潜むヴォータンがおり、小動物のような道化がいる。それぞれはそれぞれへ変移し、双方向の交流の磁場を広場として出現させていく。Dance Mediumは、マジカルな舞踏集団であり、写し絵としての身体の劇場である。『桜の森の満開の下』(2003年)、『白痴群』(2005年)、『The invisible forest――見えない森』(2006年)、『A ZOCALO――広場にて』(2006年)の作品群によって、今もっとも新しい舞踏世界を切り拓きつつある。

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【資料:Dance Medium提供】

 空っぽになった体は表現の海を自由に泳ぐことができる。
そ して空っぽの身体に一つの意志を投入すると、それが波紋となって体から溢れ出す。
 言語になる以前の体の言葉が全身の扉から溢れ出て来る。

 Dance Medium は、2003年、それまで主にソロを中心に活動していた長岡ゆりによって東京で設立。表現者は、自分を表現するのではなく、自分を通して普遍的な存在エネルギーを表現するものであるという考えから、Dance Mediumという名前を採用し、それまでワークショップで育成して来た若手の魅力的なダンサー達と共に、グループ作品ならではのダイナミックで多面的な作品を創っていこうという意図の元に生まれた。

 また、現在日本、海外を問わず舞踏の本質が見失われ、形骸化し、コンテンポラリーダンスとさして変わらないものになりつつある傾向に危機意識を抱く。再び舞踏の持つ大きな可能性を蘇らせたいという願いが底にはある。その為に、舞踏グループ白桃房に8年在籍し、研鑽を積んできて国内外で大きな評価を得ている舞踏家の正朔を招いて、共同で活動している。彼の参加によって、新たな地平が開かれ、作品世界は緻密さを増し、説得力のあるものとなっている。

 我々は、現在日本でありがちな、狭い範囲の個人的な作品、あるいは抽象的すぎて一般の観客にはわかりづらい作品、またはテーマを動きによって説明しているような作品ではなく、観客がその場において無意識のレベルでリアルに身体感覚を共有できるような作品創りを目指している。

 作品のテーマは、ダンサー個人の内面性や、社会現象に対するリアクションというよりは、人間の普遍的問題点に触れた優れた文学作品より想を得る事が多い。文学作品のストーリーをそのままなぞるのではなく、意外性のあるユニークな発想で、いったん解体し、新たな解釈を加えて、再構成している。また、様々なバックグラウンドを持つそれぞれのダンサーの個性を生かしたキャスティング、振付けを心がけて、作品が最大限魅力的になるようにしている。

 そうした長岡の自由な発想による作品創りに加えて、正朔の緻密な空間把握及び知覚認識による基礎指導が、作品に厚みを加えている。

 東京において主に活動しているが、2003年には、パリ、Gdansk(Poland)においても公演し、絶賛される。そのような経験から、我々の新しい理念の元に創られたダンス世界が、日本のみならず、海外でも受け入れられるであろうとの確信を得た。

●これまでの主な作品
”桜の森の満開の下” 2003年初演 2004年、パリ、グダンスクにて再演。
”白痴群” 2005年初演
”The invisible forestー見えない森” 2006年初演 

 その他、夫々のメンバーによるソロ、他ジャンルアーティストとのコラボレーションなどを随時行っている。

●メンバー
長岡ゆり ダンサー 振付家
 東京生まれ。
 針灸師でありながら作家でもある父の書庫で読書に耽るかたわら、若い頃バレエをやっていた母の勧めで始めたバレエのレッスンに励む少女時代を過ごし、赤い靴を履いた少女として、一生を過ごすであろうと直感する。
 魂と体の関係、生と死、存在の哲学を思索する日々を過ごしているうち、十代後半に舞踏を見て、その文学性と身体哲学、体の圧倒的な存在感、美術や音楽の新しさに興味を持つ。
その後、自身のバレエ的身体と、舞踏の方法論の間で苦しむが、研鑽を続け、閉塞した日本のダンス界に新風を吹き込むべく作品を創作し、日本はもとよりアメリカ、ヨーロッパ等で作品を発表している。舞台に立っただけで空間が変化し、物語が見えて来るダンサーという評価を得ている。
 また、体と心に対する興味と、病んでいる人々への深い共感から、自らも鍼灸の勉強と研鑽を積み、プロの鍼灸師となり、多くの患者の治療にあたっている。
2007年公開予定の日仏合作劇映画”朱霊たち”にも準主役で出演しており、演技のジャンルでも新たな地平を見いだした。

正朔

宇田川正治

小玉陽子

亀田欣昌

●主な作品紹介
”桜の森の満開の下”
 戦後日本を代表する作家、坂口安吾の同名小説よりインスパイアーされて創作。日本ではこれを元に多くの演劇、映画等が創られているが、舞踏作品としては初めての試みである。

ダンサー:長岡ゆり 正朔 宇田川正治
上演時間:1時間10分

”白痴群”
 日本文学の中でも特殊な位置を持つ作家、車谷長吉(ちょうきつ)の作品より、インスパイアーされて創った作品。
基本的には読後ほとんどの読者が不快感を持ち、居所のない不安感を持つであろう。しかしそ こから人は、自身の内部の闇に入っていくことをいやがおうにも強いられることになる。
 人間の本質的に持つ不安感、嫌悪感、暴力性、悲哀、嫉妬、底意地の悪さ、等に焦点を当て、悪と闇の本質に迫る。そこを通ることでしか光に至れないのではないかという長岡の考えが反映された作品である。 

ダンサー:長岡ゆり 正朔 宇田川正治 小玉陽子
上演時間:1時間

”The invisible forest”――見えない森
 Dance.Mediumの身体思想が顕著に現れた作品である。コンテンポラリーダンス、舞踏、演劇等のスタイルを自由に縦横に織り交ぜ、ダンサー個人の持ち味を最大限に生かした表現になっているが、体を限界まで統御して扱う事を要請しているので、レベルの高い仕上がりになっている。
 作品は、カルロス・カスタネダの著作から長岡がインスパイアーされて創った。作品の物語は長岡の創作で、観客が幻想の森の中へ迷い込んで旅をし、ダンサーと共に生と死、光と闇、メタモルフォーゼする身体、恐れと歓喜、戦い、祭り等を体験することをテーマとしている。
 ダンサーは身体と精神を変容させることによって、空間の変容を観客と共に体験する。

ダンサー:長岡ゆり 正朔 宇田川正治 小玉陽子 亀田欣昌
上演時間:1時間15分

●Philosophy
☆舞踏について――何故舞踏を重要なメソッドとして採用するのか?
 我々は、舞踏の根本概念から離れないように稽古及び作品創りをしている。その根本概念の中で重要なことが二つある。皮膚感覚と、空間の知覚である。

 まず、私達が誰でも共有できる皮膚感覚(痛み、痒み、熱さ等)を具体的なイメージとして体に与えると、その知覚によって体の中に、自我意識によっては認識できないaccidentが起きる。そのaccidentを元に外部の世界が予期せずに次々に流入してくる。例えば、首筋に食いついた虫が一匹二匹と増え続け、気がついたら全身を喰い破っているようなものである。

そうして自己の崩壊、つまり自我意識の崩壊が始まることにより、自己の原始的な生命活動が再構築を始める。そしてその知覚の連続した瞬間を生きることが舞踏であると考える。

 また、周囲の空間を知覚することも重要な要素である。全方位の空間を知覚し、また、その空間に、動き(風、渦、上昇、下降等)また光等の要素を与えることによって、自分が動くのではなく、周囲の空間が動くから自分の体が動く、動かされるという体になってゆく。

 重要なことは、自分が動くのではなく、動かされるという感覚、意識である。動かされているのであるから、自分自身という限界がない。自我を強く持つ事がないから、どんな色にも染まる事ができる。例えば、風に揺れる植物の動きは自由でしなやかである。朝日を浴びて輝く花は色鮮やかである。自由に動く事が自由なのではなく、正確に空間を知覚し限定し続けることによって自由になれるというのは皮肉である。しかしながら、いったん自我意識を捨てて空間に奉仕することが、自由への近道であると考える。
 
☆即興について
 厳密な空間や知覚の限定に加えて、我々は、即興を重視する。長岡の作舞法の一つに、まずダンサーに言葉でイメージを与え、即興で踊ってもらい、そこから要素を抽出、編集するという方法がある。動きには、動き出す前の形にならない衝動、そしてモチベーション、その人個人の体の歴史がある。それらを瞬間的に捉え、動きとして表現することで、それは振付けられた動きよりもリアリティーを持つ事がある。その可能性にかけたいという思いがある。また、個々のダンサーの魅力を最大限に引き出すためにも、そして相互理解とコミュニケーションの為にも効果的である。

 長岡は、長年即興のダンサーとして他ジャンルのアーティストとコラボレーションを行って来た経験があり、実は即興の面白さと危険さを多く知っている。ただ単に好き勝手に踊ったものが観客を喜ばせるものではない。人々の共感を得るには、やはり自我意識を捨てて空間に奉仕するという精神がなくてはならない。そしてそこには、瞬間瞬間に振付けを行っているかのような集中力と、緻密な身体感覚、その瞬間にはそれが絶対的であろうと納得できるような動きが不可欠である。

 そのような即興の中の無意識レベルでの働きに焦点を合わせると、舞踏の方法論に抵触する部分を発見することができる。アプローチは異なっていても、基本的に到達したい所は同じであろうと思う。一つの山の山頂へたどり着く為に異なった道を通っていくようなものであろうと思う。

「Dance Medium」のワークショップでは、空っぽの身体になるための様々な方法を紹介する。

■歩行  線香の歩行、植物の歩行、
■虫食い 体中を這い回る虫の知覚を使った稽古
■光と闇
■くらげ 海に浮かび、常に形を変化させる体
■植物  一本の草から、森の樹になる
■牛  闘牛場の闘牛
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by planet-knsd | 2006-11-18 07:44 | 長岡ゆり

小林嵯峨・成瀬信彦・宮下省死 『マ・グ・サ・レ』

『マ・グ・サ・レ』 舞台写真
http://homepage2.nifty.com/utyuza/page014.html

『マ・グ・サ・レ』  TRAILER
http://www.youtube.com/watch?v=6AO7BhKD5P0


9日、小林嵯峨、成瀬信彦、宮下省死の舞踏『マ・グ・サ・レ』を観た。音楽・石川雷太。会場・東京バビロン。久方ぶりに暗黒舞踏らしい舞踏を観て、感銘深い。ではその暗黒舞踏とはなんぞやと問われなければならないが、自分はそれを言葉にしうだろうか。奇形奇態なイメージ、禍々しさの炸裂。私は、禍々しくあることの愉悦を感じ、鑑賞後、快哉を叫びたかった。

時あたかも某国で核実験のあったその夜である。息苦しさがあった。しかし底の底へ降りていく暗黒舞踏の側に、むしろ世界を呪う力があった。呪い、笑い飛ばす力があった。ハリボテの国家間戦争よりも、必死の人間の闘いがあった。私はその暗闇に潜む炎をいとおしく思った。

会場内に入ると、吊るされている何者かがいる。蜘蛛の巣のように張り巡らされたビニール・チューブの上で、捕われの昆虫のような存在がわずかに身悶えしている。薄布でグルグル巻きにされた衣装で、顔は見えない。足首を見て、それが嵯峨さんだとわかった。足下には暗緑色の沼が口を開け、後方には蚊帳が吊るされている。暗闇は静かである。

得体の知れない生命体が産まれ落ちるようにチューブが切られ、円形に水を張った沼に足を浸していく。ゆっくりと消え去ると、奇形奇態な舞踏手二人(成瀬信彦・宮下省死)が登場。背中がくっついて、足が四本。一つの胴体に顔が二つ。腕は折り込まれて、ない。きらびやかな袴に突っ込まれた素足が揺れ、絡み合うように大地をつかんでいる。しかし独楽のように回り、押し合うばかりで、前には進めはしない。シーソーのようにギッコンバッタンと背中を合わせ戯れるが、この双生児の怪物のイメージが、この舞台の真骨頂ともなった。女は大縄でこの化け物を捕らえ、引きずっていく。

薄暗がりの蚊帳の中で嵯峨さんは、衣裳を着替え、仰向けになって両脚を上方に突き出している。蚊帳の中に揺れる白い脚。見世物小屋のように、楽屋内を蚊帳越しに見せる暗黒舞踏ならではの淫靡な仕掛けである。洗面器の水をぶちまけて、蛇体を蚊帳からすべり出し、暗闇でピチャピチャと音をさせながら踊る様は、垂涎の場面で怪しくも美しかった。

『マ・グ・サ・レ』は、泉鏡花の『高野聖』に想を得てもいるのだが、眺めているうちにここは生でも死でもない、生きながら生まれ出ることのかなわなかった、夢うつつのあわいのように思えてきた。生きものとして必死の抗いを見せながら、その姿かたちは怪異なものに変えられている。戻ってくることのない世界で、自己存在を祝福する花火が暗闇へ向かって幾度も打ち上げられていく。沼こそが相応しい、意識の底へ、我々もまた引きずり込まれていく。

汽車の汽笛が響いて、三人の舞踏手は、ときに嬌声を響かせて、絡みつき、沼に突き落としながら笑いさんざめく。小林嵯峨の舞踏は、天井からぶら下がる男を眺めやる仕草といい、洗いものをする仕草といい、日常の所作を織り交ぜながら、すっと歩いたかと思うと霊体へ変化(へんげ)するような移動があり、いつもながら味わい深い。ケレン味たっぷりの成瀬の変幻と、蛮刀のような輝きを見せた宮下の粘りを、また慈しんだ。

なぜかくも我々は『マ・グ・サ・レ』に暗黒舞踏を感じたのか。死の気配を濃厚に漂わせながら、一方で暗闇の花火のような祝祭性を感じたのである。身体、衣裳、美術、これらすべてが空間を変幻させる魔術的な装置であるとするならば、身体は何処に入っていくかが重要である。水の中に入らない者は、その水を体感し得ない。身体の底へ底へ降りていくとき、さかしまの笑いがこみあげてくるのである。

小林嵯峨+NOSURI http://www.weave-a-wave.com/saga/

成瀬信彦/舞踏歌 http://homepage2.nifty.com/utyuza/index.html

宮下省死インタビュー http://www.geocities.jp/azabubu/freepaper/miyashita.html

追記
私は数年ぶりに舞踏を見始めている。この舞踏の遺伝子が何処へ行くか、見極めてもみたい。テルプシコールの舞踏新人シリーズを、夕湖、田村のんのみ観た。いずれも、小林嵯峨さんのお弟子さんである。舞踏は、なぞるだけでは見えてこない。その身を浸したとき、からだは自ずと変わるはずである。その冒険の果てに美しい華も咲くのではないか。

書き忘れた、石川雷太の音楽はいつもながら素晴らしい。このカオティックな世界にこそ、揺らめく生命体もまた萌え踊るのである。拍手!
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by planet-knsd | 2006-11-15 01:15 | 小林嵯峨