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『秋のタタラ祭り2007 舞姿六人衆』については、近くあらためて「テルプシコール通信」で執筆します。むろん、先の日記を全面改訂し、仕上げます。お楽しみに。
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by planet-knsd | 2007-11-23 15:23 | その他

舞踏六人衆 第二夜

自分は舞踏を分析的に観てきたわけではない。かなり好みというものが偏っていて、ニュートラルな批評ができるかどうか、疑わしい。そもそも、舞踊に批評が可能なのか、これは真剣に考えたほうがいい。舞踊批評家を名乗るためには、最低限、身体技法について精通していなければならない。身体を動かさない批評家などナンセンスの極みだ。骨と筋肉の関係、身体構造への科学的知見などを含め、批評家であれば、身体への構造的な関心が必要だろう。それは自分自身の身体を使って知ることなしに、舞踊を知ることはできないだろう。ましてや身体技法を知らなければ、舞踊を批評することは不可能だろう。ダンサーがいまどのように身体を動かしているかを、分析的に観察する能力がなければ、批評家を名乗ることはできないだろう。

私はそのような意味で、観察者の眼としてこのブログを書いているけれど、舞踊批評をしているつもりはない。私はそれほど、身体技法に関して、分析的な眼をもっているわけではない。おそらく、自分自身の身体を知ることなしに、身体技法の何たるかを知ることはできないだろう。そのことはわかっており、そのことを課題として、そのうえで私は、身体表現の観察者、探求者、愛好者でありたい。私は一人のアマチュアとして、身体表現の同伴者でありたい。それだけを願って私は舞踏を観続ける。なぜだろう、何のために、それを私は言葉にしえない。ただ好き、としかいいようがない。

さて、11月17日、「舞踏六人衆 第二夜」、テルプシコール。
木村由「岸へ向かう」
藤井マリ「空地Ⅵ H-akuchumu」

なんといっても、藤井マリの音響・戸田象太郎の音世界を愉しんだ。トダゾー最高! 「雪が降る~」と調光室から歌って、ピンポン玉をアメアラレと降らせた戸田のアクションは、コラボレーションに相応しく、空間を開いてこねて、流し込む、音響家の手さばきが見えて、あらためてこの人の才能を堪能した。藤井マリのダンスは、空間に分け入っていくように両手を広げ、臆病そうに表面を撫で、その裏側に入っていきたいという衝動を抱えながら、立ち尽くし、足踏みをし、揺らめいていた。絶品だったのはあのヘナチョコの倒立で、ヒョヒョッと手を着いたかと思うと、グーンッと足を伸ばし壁際に逆立ちしてしまったところだ。キモチいい~感じが伝わってきて、あそこは好きだった。アメアラレのピンポン玉とどうカラムかと思われたが、戸田の流し込んだ大音響に身体をノセ、夢遊病者のサーフィンのように背中を見せたところは、メッチャクチャカッコ良かったが、その後に何か、なかったか。壁の中央に、戸田の美術としてピカチューだのゲーセンの玩具の類がビニール袋に入れられブラ下がっていたのだが、あれをビリビリと剥がしてほしいと思ったが、そのあたりは擦過するのみで、踊りはフワッと終わったという印象。音の配色はすばらしかったが、ここで何が立ち上がっていたのか。全速力で後退していく藤井の身体のせめぎあいこそが見所であったかもしれない。

木村の舞踏は、申し分のない丁寧さで、それ以上書くことはない。音楽の太田久進も良かったと思う。ただ、女、ちゃぶ台、海という設定が、あまりにも当たり前すぎて、作品としてのつまらなさが残った。暗転の後、壁際に立って、もう一度光の中で引き攣れたものが観たかった。彼女はまだ何も脱いでいない。

隣にChe-SHIZUの向井千恵さんが座られ、数年ぶりにご挨拶。今度どこかで聴きに行こう。
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by planet-knsd | 2007-11-18 14:54 | その他

舞踏六人衆 第一夜

人は何のために躍るのだろう。それは、身体という記憶の回廊を皮膚膜を通して外在化することにあると思う。私は、人間とは自然という機能を内在化させた有機的な機械だと考える。その内なる自然は、皮膚膜を通して外在化される瞬間、身体は開かれていくのだ。これを、私たちは心地よさという。すなわち、躍ることは、身体の内に風を通すことだ。そこにメディア(触媒)としての身体が立ち上がり、風景が顕在化する。身体の内が外へと通底し、身体は開け放なたれた窓となる。フリーダ・カーロの絵のように。苦悩と歓びが、一本の弓矢となって穿たれ、身体はその瞬間に消滅するのだ。舞踏(ダンス)とは現れては消える風景に過ぎない。(本日の考察)

追記
この(本日の考察)は、改めて読むと、観る側の欲望なのかもしれない。私は舞踏に、ただ官能性のみを観たいわけではない。むしろ、その歪みや、屈折をこそいとおしむ。そのことを前提として、身体を穿たれた窓として開けることは、舞踏身体の冒険であるように思う。


2007年11月16日
「秋のタタラ祭り2007 舞姿六人衆」第一夜、テルプシコール
田山明子「羽化・石化Ⅴ~Twinkle twinkle little star」
小野由紀子「ゆふつづ~すぐそこに~」

後に踊った小野由紀子から書こう。あらためて批評として書くが、小野の身体は昭和の風景こそが似つかわしい。その佇まいには生活の匂いがし、戦後の女たちのふてぶてしさや力強さを内面に溜めて、持続する力として小野の身体は立ち上がってくる。小野の体内にどのような記憶の風景が織り込まれているかは知らない。しかし、小野はまぎれもなく視る人である。その観察眼において、小野は注意深く風景を内在化させる身体の眼をもっている。ここが小野の秘めた能力ではないか。下半身の強さは、毎月、大倉山で踊り続けている鍛錬によるものであろう。屋外で踊るということは、身体を窓として内と外を交流させることにある。雨に濡れた体や枯れ葉に包まれた体が、皮膚感覚として風景を内在化させる。身体という眼が、それを幾層もの記憶の回廊として編み込んでいくのだ。その成果はまぎれもなくあった。
左手で何かをまさぐるように立った場面、雨に濡れた土を撫でるように前進していった場面、のど自慢の音を背後に背負いながら静かに立っていった背中の風景、そこにビョークを重ねながら深く深く沈んでいった大団円。演出上の問題としては、のど自慢の後に、別の位相に転化する最後のダイヴを試みるべきだったかもしれない。そこは問題点として残しながらも、小野の持続力は充分賞讃に値する新たな境地を拓いたのではないか。ラジオのチューニング音は、皮膚感覚の回路を思わせて、成功していたと思う。音響は大野英寿。今年、もっとも納得のできた舞踏公演であった。

一方、田山明子の身体は、いささか空間が狭いのではないか。自己確認をしながら空間に線を描いていたが、空間の質そのものはそれほど変わらない。広がりもしなければ、狭まりもしない。その単調さに、私は耐えていた。音を放射したKo・Do・Na(オルガン、トランペット)も、田山の身体の内側に入り込むことや、そこから還ってくる質感を確かめていたようには思えなかった。Ko・Do・Naはどれだけ注意深く田山の身体を視ていただろうか。Ko・Do・Naのトランペットは、空間に放射した音がどこを巡っているかを確かめないで吹いている。だから音が孤絶しているのだ。コラボレーションでありながら、二人の表現者は自己を外在化させるのにせいいっぱいで、一瞬でも溶け合う場面はなかった。ここが最大の不満である。バレエシューズを手に持って、Twinkle twinkle little starで消えていく最終場は美しかったという声も聞いたが、残念ながら客席の上手側にいた私はそれが見えなかった。ただ終わってT氏(舞踏批評家)と話したら、自分は小野さんよりも田山さんの方が良かったといっていたので、人によって感受性はずいぶんと違うものだなあと思った。

第二夜は木村由、藤井マリ(19:00~)。
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by planet-knsd | 2007-11-17 04:03 | その他

舞踏新人シリーズ第35弾(第三夜・第四夜)を観て

生活と結びついていない身体表現など何の価値もないと思う。舞踊とは生きることそのものであり、自己の生死を切って捨てるほどの強度がそこになければならない。つまり、舞台表現とは、己の実人生を額縁=劇場に投影させることであると思う。それほどの生き死にが舞台表現の中に凝縮している。そのような潔さがない限り、身体表現とは言えない。生きることに存立していない身体など何の魅力もないからだ。それが血が通っているということでもある。だから私は純粋芸術だの唯美主義だのは認めない。美とは自己存在の結晶化のことである。

私は最近、身体表現の健やかさだけを観る。健やかさがあれば、身体表現は永続していく。また、そのような強度がなければ一回性で終わってしまう。永続性とは実人生の希求でもあるだろう。この一度切りの人生を、どれだけの健やかさにおいて生き切るかということに人生の発露がある。それだけのエネルギーがあれば本望ではないか。

私は、舞踏を身体の回路として見る。人それぞれに身体の回路があるのである。私は身体表現をジャンル化することにそれほどの意味を認めない。だがしかし、舞踏が他の身体表現と違うところは、身体を内観することである。それは自省ということにも通じる。身体の奥底に通じていない舞踏など舞踏とは言えない。それは、身体の静けさへと至る秘儀なのである。この生命存在の神秘へと至る魂の冒険なのである。

身体とはブツに過ぎない。それは器なのである。身体を動かしているエネルギーこそが踊りの本質であり、形は身体のクセにしか過ぎないとさえ考える。あるいは技巧の結果としての形がそこにあるだろう。野口整体で言うところの体壁であるとか、気性であるとか、性格であるとか、歪みであることが形を作るのである。身体の歪みこそがその人の回路であって、私が健やかさと言っているのは、エネルギーの誠実な水路のことでもある。真摯さがなければ舞台表現は成立し得ない。感動とは真裸の存在が見えたということである。お前自身になるということは、身体をブツとして最大限に活かしたということでもある。誰でも赤ん坊が光り輝いているのを感じる。そこに技能はないが、真裸の真実がある。技能とは何かと言えば、自己存在を貫く時間を空間化することである。そこに花としての時間がひらくのである。

さて、テルプシコールの舞踏新人シリーズに触れよう。

13日(土) 染川美帆『初恋~最終章ちっく~』
染川の身体はエロティックである。そこに彼女の持ち味がある。それは充分に誇っていい。それは彼女の回路であるからだ。しかし彼女はそのことに対するコンプレックスを持っているようだ。彼女はけっして技巧的に自己のエロティシズムを見せたわけではない。むしろそこには天然のエロさがあった。私が誇るべきと言いたいのは、この彼女の天然性である。私がもっとも印象的だったのは、黒いパンティを腿までずり下げて暗転した瞬間である。ここに最大の謎があった。私は彼女が欲望に通底したいというふしだらさがあると感じた。私は素直に聞いた。あれは何だったの? すると彼女はこう答えた。あれはね、子供の頃、パンティをずり下げて男の子の気を引こうとしたことがあったの。それをやっちゃった。どうしようかと迷ったんだけど、えいってやっちゃた。それだけのことです。ここに彼女の素直さがある。それは私にとって買いであった。染川美帆の魅力はこの天然のエロさである。エロという言葉が嫌いならば、生々しさの魅力と言ってもいい。私が印象に残ったのは、最初に激しくぶっ倒れて、ジタバタと身体を床に擦りつけ、身悶えした長い時間。それと、両手を上下にギッコンバッタンと動かして横歩きをした場面(ここにはひとつのファンタジーがあった)。それから壁際で右足を上げ、壁をこするように股間を開いた場面である。私はここにもっともエロティックな瞬間を観た。パンティをずり下げたところはまったくエロティシズムを感じなかった。それはむしろコケットリーな仕草である。最終場はまったく認めない。暗黒のエロティシズムを演出したかったようであるが、エロティックではなかったし(胸元は汗で輝いていたが)、どこに行きたいのか、まるでわからなかった。ここは不満が残った。黒衣の聖母なり、彷徨える娼婦なり、はっきりしたイメージが必要だったのではないか。ラテン系の志向性とシャンソン系の志向性は彼女の中の欲望とロマンティシズムの同居であるようにも感じた。『初恋~最終章ちっく~』は、父性愛との訣別を意味したようだ。だがしかし「ちっく」とことわりを入れているところが彼女のひとつの仕草なのであろう。

※断っておくが、これは「舞台評」ではない。感想をメモとして書いている(以下も同様)

=「エロ子供賞」受賞

14日(日) 根耒裕子『うつし身』
根耒さんは恥ずかしながら初見である。古川あんずさんのところにいらっしゃった方だからそのキャリアは長い。18年ほど踊られているようだ。しかし今回初めて完全なソロ公演をやられたという。彼女は達者なのである。実人生の細やかな水路を丁寧に身体化している。そのような誠実さが彼女の佇まいの中に見える。舞踏のテクニックは持っているけれど、大方の意見の通り、顔が邪魔をしている。歓びや哀しみは身体をして語らせよ。それが無言劇としての舞踏の表現である。彼女の顔は、語りえない言葉や内奥の感情を演劇的な仮面としてかぶっているに過ぎない。それは彼女の想像力の奥行きの中で行われていることだから、身体から生まれてくる顔の表情にはついぞ出会えなかった。唯一、最後の暗転の数十秒、ここに彼女の安らぎの顔があり、素の表情が一瞬だけ覗いた。私はここで不覚にも涙したが、彼女の感情に嘘偽りがないことを感じていただけに、あの作られた仮面はいただけない。そのことを彼女はとことん知ったはずだ。踊りとは、ただ内奥のエネルギーに身を委ねればいいだけのことなのである。そこに技能を積んでいけば柔らかな表情が出てくる。虚実皮膜のあわいを踊ることこそが舞踏の醍醐味であり、軽さと重さ、この両方を使い切れないと、舞台に陰影は現れてこない。私は彼女と亀裂の話をした。女性的な感性は持っているのだが、開いている水路が狭すぎるので、カタルシスがないのである。小さな水路から奔流となって迸るものがなければ感動には至らない。自分を投げ出す瞬間がなければ、舞踏の亀裂は生まれ得ない。そのような身体の出し入れができるようでなければ、ブツとしての身体を扱い得ない。舞踏における第三の眼とは、宙空にもうひとつの眼を置き、器としての身体を充たしていくことの技術である。身体に見えない水を入れていき、一瞬に溢れさせる技術(エロティシズム)がなければ観客は堪能しないのである。

=「怨念踊り賞」受賞


一気に書いたので、言葉が厳密でないところがあるかも知れない。許されたし。
(これは批評ではない!)
http://nancle.exblog.jp/

なお、「舞踏新人シリーズ」の第一夜、譱戝(ぜんざい)大輔『メタンボカン』、第二夜、牧野弘『フォルム』は見逃しています。 これまたご寛恕。
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by planet-knsd | 2007-10-15 06:44 | その他

テルプシコール企画「舞踏新人シリーズ第34弾」

テルプシコール企画「舞踏新人シリーズ第34弾」

●会期:2007年5月10日(木)~13日(日)
●日時:5月10日(木)~12日(土)pm7:00開演・13日(日)のみpm5:00開演
●会場:テルプシコール Tel.03-3383-3719(JR.中野駅南口下車、高円寺方向徒歩7分)

<出演>
5月10日(木)…阿久津 智美『つなぎもの』
5月11日(金)…小川 水素『とける』
5月12日(土)…天都祝刀『戯式』
5月13日(日)…芽衣桃子『桃われ』


以下の文章は、最終日の夜に行われた講評の感想文です。


印象に残ったのは、合田成男氏が芽衣桃子の「はにかむように消えた」ことを評価した言葉だった。合田氏の芽衣さん評は極めて辛辣であったのだが、そのことだけは評価した。「最近、そういう踊り手が少なくなってきた。表現することは恥ずかしいことなんだ。そういう感情をカラダが持っていることは重要だ」というニュアンスのことを述べられたと思う。

私も同感だった。踊りは「出現と消滅の時間」そのものであり、消えることに大きな意味があると思う。それは死へ向かう刻であり、来るべき再生を予感させるものでなければならない。その「はかなさ」が舞踏の本質であるとさえ私は思うのである。はかなさのない踊りほどつまらないものはない。照明の中心に立って、舞踏は成り立たないと思う。陰をまとうことを知らない踊り手は、それだけで評価の対象外である。

私は、芽衣さんが異形の人形として現れ、はかなさにおいて消えたその道程を美しく思った。途中の涅槃を想わせる静けさのなかに身体を置いた瞬間を好ましく思った。『桃われ』というタイトルに寄せて、芽衣さんは「桃の木の礎になろうとした」と私に語ってくれた。「けっして、桃の実そのものになろうとしたわけではない」と。(芽衣さんはこの作品に対して、短い詩を書いているけれども、手元に資料がないので、これを明日、加筆したい。)

佐藤正敏氏は、「芽衣さんの踊りには隙がない」とその近寄り難さを否定的に述べたけれども、芽衣さんの志向性に優しさがないわけではない。佐藤氏は「桃の実の滴るような実感がない」という意味のことを述べていたが、確かに芽衣さんの身体は佐藤氏が期待するようなジュクジュクとした柔らかさに欠けているかも知れない。芽衣さんの筋肉の質については合田氏を含めさまざまな意見があったけれども(おおむね批判的な意味で)、私はそのフォルムの美しさを肯定的に捉える面もある。ただ、立ったときに光や風を感じることがなく、舞踏の空間としては広がりをもちえなかった。

それは師匠の大竹宥熈氏も指摘していたことで、私も壁に向かった場面で、向こう側に夜の海がひらけるか、風吹く暗い草原がざわめくなどすれば、まったく身体は変わっていたように思う。

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天都祝刀の『戯式』が意外と高い評価だったのには、正直驚かされた。新人シリーズの講評もずいぶんと優しくなったなあと感じた。神道の神主でもある天都の作品は、かなり演劇的でもあった。上手奥に設えられた神棚は、結界が敷かれ、聖なる空間を形作っていた。そこに異形の神官が三人(怪しげな仮面を被っていたり、包帯をグルグルに巻きサングラスをしていたりする)と、一人の巫女がいた。儀式の名称が告げられ、祝詞がそこで上げられる。それは神式の本格的なものであった。しかしいつしか猥雑な言葉を孕みつつ、「暗黒神楽を奉納する」ことが宣せられる。このような仕掛けは、私は嫌いではない。

しかし、天都の舞踏はいささか力のない、狂言回しのようなものであった。一応の形、振付はそこにある。必死の形相でのダイブは確かにあるので、その生真面目さは「買い」であるのだが、けっして踊りがおもしろいとか、堪能しうるとか、引き込まれるとかのことはいっさいなかった。「馬鹿ばかしさ」が評価されたのだが、それだったら「戯式」とかもったいぶらずに、始めからギャグとかコントとかいってほしかった。それは冗談としても、天都祝刀という仰々しい名前と冒頭の神式の儀礼によって、むしろ私はファナティックなものを期待したのである。それはとんだ肩透かしであった。神領國資の亡霊は現れなかった。

ただ、ソロ舞踏に玩具のピストルがパンパン撃たれたり(ここでチンドン屋の音楽がかかったのは良かった)、ピストルを撃った神官が背後で巫女の太腿をまさぐるなどの猥雑なシーンは好きである。ビタワンのドッグフードの袋をかぶって血だらけの傘を持って出て来るなど、イメージとしては評価したい面もある。ただ出て来るカラダがあのプヨプヨの「外郎(ウイロウ)のような身体」ではなんとも興醒めしてしまうのである。私は男性舞踏手には「怖い身体」を期待してしまうので、あのような猥雑そのもののカラダには引いてしまうところがある。

ともあれ、生真面目でいい青年なのである。「日芸魂」という評価も聞かれたが、確かに馬鹿ばかしいほどのヘナチョコぶりはあえて評価してもいいのかも知れない。しかし合田成男氏が言うように、「二つの生半可さがある。神道に対する生半可さと舞踏に対する生半可さだ」という冷静な評にはうなづくものがあった。合田氏は神道の儀式において立ち現れる身体の所作を内在化させ、そこからカラダの内に己の神道を打ち立てよと言ったがその通りであると思った。その回路において、天都祝刀はどれだけ真摯であったろうかと私はいぶかしむ。

その作品がフェイクにしか見えないというのは、やはり致命的な欠陥ではないか。神道のフェイクとしての舞踏ではなく、神道の裏側に入っていく舞踏こそを見てみたい。それが真の意味での「暗黒神楽」ではなかろうか。本人の生真面目さだけで作品を評価したくはない。彼のカラダを突き動かしているもの(=身体の回路)は、まったく見えなかったのだから。

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小川水素さんは、見せ方を知っている人だなという印象をもった。すべては確信犯的で、入り方は大胆である。舞台慣れしているなという感じがあった。

着物にステンレス製の物干し竿というのも、ブツの強さを日本舞踊の所作に持ち込もうとした実験だったと思う。あそこは「藤娘」の引用だと水素さんは打ち明けてくれた。そのように彼女の踊りはアイディア満載なのである。

志賀信夫氏が指摘したように、水素さんはいくつかの名場面を作り出した。冒頭の電球の明かりに足袋の足が浮き上がる場面、帯の上を右手の拳で繰り返し繰り返し叩き続ける場面、着物を着せた人体の脇で棒を持って大きく口を開ける場面、棒を背中に立て掛けて座って蝶のように舞う場面など、絵作りという点では彼女はしたたかな演出家である。特に、肚を叩き続ける場面はある感動をもって見たし、明らかにここで作品もカラダの質も変わったのだった。

しかし水素さんのような明晰なタイプは新人シリーズではもっとも叩かれやすいことは経験上知っていたので、合田氏が口をきわめて批判したことは予想されたことでもあった。簡単にいえば、彼女の踊りには素朴さがないのではないか。カラダの真実が見えてこないといってもいい。それは『とける』というタイトルを付けながら、ついに溶けることのできなかったカラダが象徴している。評者全員が批判した着物を脱いでからのダンスは、私も批判するところで、「それまでを台なしにした」という言葉が出たほどこの最終場面はやはり完全な失敗ではなかったか。

しかし水素さんは、あれほどの集中砲火を浴びながら顔を下げることなくそれをすべて受け止め、最後まで明るく振る舞える強さをもった人だった。話していても気持ちのいい人で、彼女自身も現在の問題点をよく理解していると思われたのである。でも、水素さんのような踊り手が本当の意味で裸になっていくには相当な時間と経験が必要だと感じた。経験とはただの舞台数ではなく、身体の質を変える何か決定的な経験かも知れない。

考えてみると、舞踏神とは残酷な神で、どれほど身を削って捧げ物をしても万人に平等に微笑みかけることもなく、ましてや輝きのカラダなど通り過ぎる天使のようにはかなく、ただその一瞬の、いやもしかしたら繰り返し訪れるかもしれない法悦の時間を求めて、舞踏手はその身を鍛え上げていくのだろうと思う。


追記
初日の阿久津智美さんは見逃したので、ここでは言及しません。ご容赦。
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by planet-knsd | 2007-05-18 04:42 | その他