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映画『朱霊たち』路上パフォーマンス(20070114)

1月14日、映画『朱霊たち』公開直前路上パフォーマンス(新宿)より
出演:岩名雅記、澤宏、長岡ゆり、森下こうえん、成田護、小玉陽子

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昨日は、11時に新宿伊勢丹前に集合。映画『朱霊たち』の宣伝隊に加わる。監督の岩名雅記、出演者の澤宏、長岡ゆりの他、森下こうえん、成田護、小玉陽子が路上パフォーマンスを繰り広げた。スタッフはノボリやプラカードを掲げ、フライヤーを道行く人に撒いた。音楽は映画のサウンドトラックを使い、『海ゆかば』がかかった時は身が引き締まる思いがした。場所は三越前、警察の介入もなく、14時30分に新宿を撤収、部隊は下北沢へ向かった。私はここで切り上げたが、聞くところによれば、演劇の街・下北沢では、大勢の観客に取り囲まれたようだ。全体の心がひとつになる充実した宴であったと思う。

映画『朱霊たち』は、1月20日より東中野ポレポレ坐にてレイトショー公開。
『朱霊たち』公式サイト
http://www.shureitachi.com
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by planet-knsd | 2007-01-15 01:16 | 岩名雅記

岩名雅記監督作品『朱霊たち』:「死は性愛の裏側で、聖なる世界へと通じている」

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下記の原稿は、身体表現批評誌「Corpus」創刊号に掲載されました。

「死は性愛の裏側で、
聖なる世界へと通じている」
――岩名雅記監督作品『朱霊たち』に寄せて



 舞踏家・岩名雅記が、映画に初挑戦した。長編舞踏劇映画『朱霊たち』(一〇四分、白黒スタンダード一六ミリ)である。

 この映画は岩名が製作・監督・脚本を務め、フランス、南ノルマンディーの彼の自邸、同ペルシュ地方自然公園内にあるクールボワイエ城館、そしてブルターニュのギャルド海岸などで撮影された。撮影監督は、フィリップ・ガレル作品の助手などを務めた女性カメラマン、パスカル・マランである。

 舞台は戦後七年目の東京に設定されながら、全編がフランスで撮影された。この映画のために、舞踏家の澤宏、長岡ゆり、若松萌野、七感弥広彰、舞台俳優の根岸良一、パフォーマーの首くくり栲象らが出演した。これにイタリア人の舞踏家バレンティナ・ミラグリア、フランス人舞踏家モハメッド・アロスイが加わっている。

 物語はいささか奇妙なものである。廃墟のような館に、数名の男女が幽閉されている。彼らは陽の光を浴びることができない難病に侵されており、自らの意志で死を待ち望んでいる。生まれながらに獣のような指を持ち、見世物小屋を転々としていたヒズメ(澤宏)、男と心中して生き残った娼婦ネアン(長岡ゆり)、それに聾唖者で不具者のマリア(バレンティナ・ミラグリア)である。もう一人、今朝ほど首を括って死んだ女カケラ(若松萌野)がいる。

 そこに特攻帰りの旧軍人ヒノマル(モハメッド・アロスイ)に誘われて迷い込む少年(滝原祐太)がいた。彼は、空から飛行機で撒かれた「人間機関車ザトペック来日」のビラを追って、ここまで辿り着いてしまったのだった。ヒノマルは病者たちの監視役ではあったが、戦争の虚しさに倦んじ果て、共に死ぬことを願望していた。

 つまり、この映画は、死へまっしぐらに向かう男女の密室劇である。その劇は、さながら世界を呪う秘儀として、すべてを暗黒点へと引きずり込んでいく。観客はそのエクスタシーの果てに陶然とするほかはない。

 病者たちの棲む館は麻布界隈にあり、壁に穿たれた洞穴が山谷へとつながっているとされる。それは地獄めぐりの迷路なのか、それとも幻世へとつづく階梯であろうか。

 ヒズメの手がマリアのヴァギナに侵入すると、恍惚の果てに聖なるヨダレが垂れていく。甘露なる滴に濡れて、肉体の大伽藍にシマノフスキー作曲の『スタバトマター』が響きわたるシーンは、まさに舞踏の生まれる瞬間ではないか。岩名はこのように言う。

 「性愛(エロティシズム)は、自己が制御しえない瞬間の死であり、舞踏は〈死を生きてみせる生命そのものの技術〉という点で双方が〈死〉に結びつくのです」

 死は、性愛の中心に潜んでいる。そして、性愛の果てに、鏡のように死者としてのドゥーブル(もう一人の自己)を映し出す。性愛は死を招き入れることによって、エクスタシーという合一を幻出させるのである。

 舞踏は性愛と似て、死をかき抱くように踊り、肉体という伽藍に死者を棲まわせようとする。舞踏は、死へまっしぐらに向かう生命の燃焼を劇場化するのだ。それは危険な賭けには違いないが、そのような危機の絶嶺においてのみ舞踏の華はひらくのである。

 岩名の言うように、舞踏が〈死を生きてみせる生命そのものの技術〉であれば、そこにはやがてカケラとして散る肉体の影――それは、未来の影だ――をも映すだろう。

 「無名にて死なば星らにまぎれんか 輝く空の生贄として」(寺山修司)

 映画の冒頭に掲げられる寺山の短歌である。それにしても、マリアはなぜ不具者なのだろうか。岩名はこのようにも言う。

 「マリアはほかの登城人物のパーソナリティと違って僕の概念の産物です。ヒトがモノになれば、ヒトが持っている不完全性を超えて完全なものになる。モノは不具であるがゆえに完全を獲得する資格があるということでしょうか」

 奪われたもの、もぎ取られたものに聖性が宿る。マリアは、世界に明け渡されたモノであるがゆえに、神なるものとして世界を合一する。「輝く空の生贄として」、マリアは病者たちの魂を拾い集めていく。

 縊死したカケラの死体を捜しに、ネアンと少年は洞窟をめぐり、幻のような黄泉の国――浜辺――へと至る。そこには、生命のカケラが鏡に反射しあい、星々のように煌めく幻想の風景が広がっている。

 白昼夢のように現れたマリアが、「ヒトがミズやヒカリやイロやオトのような〝モノ〟になれば、まず私たちのカラダが変わります。カラダがモノに変われば、歩けないことも話せないことも聴こえないこともなくなります」と話す。

 印象に残る美しいシーンだ。聞くところによれば、『朱霊たち』は、葛原妙子の歌集『朱霊』にタイトルの想を得ているという。

 「湖(うみ)の風つめたく吹きて球台に散らばる 赤き玉 白き玉」(葛原妙子『朱霊』) 
 「赤玉をうすきめがねに染めつつひとりの死者たまあそびする」(葛原妙子『朱霊』)

 このように、赤玉・白玉のような命のカケラは、死者と戯れながら、その霊を慰めることもできるのだろう。だから、『朱霊たち』は、けっして絶望の物語として編まれたわけではない。その逆説的な生命の燃焼を、熱き血潮の涙を、私たちは見通せなければならない。

 ところで、『朱霊たち』は、なぜ戦後七年目に舞台を設定したのだろう。焼け跡闇市の風景の中で、近しすぎる死の記憶がまざまざと生者を食み、生者は死者に寄り添って生きていくことが自然としてあった。そうであるがゆえに、戦後の青空は、生き残った者の肉体をあれほど輝かせたのである。死者が鏡となって生者に光を与えたのである――。

 舞踏劇映画『朱霊たち』は、戦後のこの剥き出しの生命の在り様をなぞろうとする。それは、岩名の身体の記憶がそうさせるのであろう。舞踏は死者と入れ替わる技術でもあり、死んでいった者たちのカケラが、この肉体をも貫いていることを舞踏はよく知っている。「呪って祈る」存在として、舞踏者は死者と共に在ろうとする。

 物語の終盤、ヒノマルが『海ゆかば』を歌うと、密室の劇はふたたび死の縁へと辿り着く。映画は、難病者五人が揃えばガス室で死ねる、という大団円を用意する。舞踏劇は死へ跳躍しながら、肉体を永遠の零地点へと封印するかのようだ。そこに、死と生を合わせ鏡のようにかき抱き、絶嶺の舞踏を踊る者たちがいる――。

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舞踏劇映画『朱霊たち』(Vermilion Souls)
2007年1月20日より、東中野ポレポレ坐にてレイトショー公開。
http://www.shureitachi.com
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by planet-knsd | 2006-12-29 17:50 | 岩名雅記